サイト内
ウェブ

海野和男のデジタル昆虫記

海野幸徳

海野幸徳
2014年08月17日

 ぼくのおじいさんである。1954年に亡くなったから、今年で60年になる。幼少時に4年ほど一緒に暮らしたことがある。昨日、ものが見えにくくなったので、眼鏡屋にいった。そこに丸いメガネがあって、アトリエに一枚だけあるおじいさんの写真のメガネに似ていると思った。
 ぼくが小学校一年の時に亡くなったから、記憶は限られている。それでも、おじいさんの背中に背負われて、放置された軍用トラックを見た記憶がある。京都御所でアオスジアゲハに感動したのも、おじいさんが連れていってくれた時である。戦後は大法院というお寺に寄宿していた。そこでセミの羽化を見たりした。
 海野幸徳は後に龍谷大学の教授になっているが、もともとは在野の社会学者であった。活動拠点は京都で、たくさんの本を書いている。進化論に傾倒し、1910年には日本人種改造論なるちょっと危なっかしい本を書いている。優生学の本である。
 その後は優生学からは離れ、児童と活動写真、現代人の恋愛思想、現代の青年運動、貧乏と奴隷、社会事業槪論、輓近の社會事業などたくさんの本を書いた。本で生計を立てていたのはぼくとあまり変わらない。ぼくが読んだのは最後に出した厚生学大綱だけだ。
 ふと思いついて検索してみたら、なんとgoogleのPDFで読める本が20冊近くもあった。googleが過去の本を電子書籍化するのが何年か前に問題となって、出版社などから、どうするかと意志の問い合わせがあったが、著作権の切れた本なら全く問題がないわけで、このようなマイナーな書籍まで電子化されていることに驚いた。これは素晴らしいことである。時間があれば、読んでみたいと思う。
 ぼくの母親は、このおじいさんの娘であるわけだが、生物好きだったり、ぼくの仕事に理解があったのはおじいさんの影響だろう。家にはたくさんのヨーロッパの図鑑もあったそうだ。母はおじいさんに一度だけたたかれたことがあったそうだが、それは母が、ぼくを泣かせた時であったそうだ。おじいさんは、ぼくのことをとてもかわいがったそうだ。そんなわけで、今のぼくがあるのかなとも思う。
 海野幸徳の母は稲垣スエ(寿恵子)である。社会事業家で教育者であったそうだ。海野幸徳は母親の影響を強く受けていると思う。ひいおじいさんは確か海野幸明と言ったと思う。数学者であったが、明治の時代に稲垣スエに離縁されたそうである。どうも父親の影は薄い。

前日
翌日

お知らせ

単行本

連載

◎過去の小諸日記

海野和男写真事務所へのご連絡、小諸日記へのご意見

プロフィールページのアドレスへ

掲載情報の著作権は海野和男写真事務所に帰属します。
Copyright(C) 2024 UNNO PHOTO OFFICE All Rights Reserved.

キーワードからさがす

gooIDで新規登録・ログイン

ログインして問題を解くと自然保護ポイントが
たまって環境に貢献できます。